PhotoBlog:25 裸の戦闘機

Photo No.25 裸の戦闘機/撮影地 福岡県 朝倉郡 筑前町

大刀洗平和記念館に展示されている九七式戦闘機乙型を、別視点から撮影しました!📸✨

九七式戦闘機の目線の先にあるのは、天井に吊るされた巨大な航空機の形をした金網でございまして、これはかつて、大刀洗飛行場や日本の各主要都市を焼き払った米国の大型戦略爆撃機、ボーイングB-29スーパーフォートレスを模したものとなっております。

また、ジュラルミン地が剥き出しとなっている実機の足元には、塗装された状態の九七式戦闘機の姿が分かるよう、小さな模型が一緒に展示されておりました✈️

九七式戦闘機は1935年、当時旧日本海軍が所有していた九六式艦上戦闘機の成功例を見て、それに刺激された旧日本陸軍が自らも航空戦力を持とうと画策し、開発の計画が立ち上がりました。

当初は三菱重工業と川崎航空機(現在の川崎重工業)が開発していた機体から選別を行おうとしておりましたが、しかし両社が当時開発していた機体では、陸軍が求めている主力戦闘機のスペックとは見合わず正式採用は見送られ、1936年に今度は三菱、川崎の両社に加え、中島飛行機(現在のSUBARU)にも開発命令を出し、競争試作が行われました。

三社は互いに試作機を開発し、陸軍は慎重に審査を進めておりましたが、1937年に中華民国にて盧溝橋事件が勃発すると状況は一変し、航空機の戦力投入が急がれたため陸軍は審査を急行し、そこで正式採用されたのが、中島飛行機が開発した試作機キ27でございました。

九七式戦闘機は陸軍初の主翼が一枚の低翼単葉機となっておりまして、最高速度は470km/hと当時としてはかなり速い方であり、また旋回性能にも優れていて、水平面での格闘戦を得意としておりました。

ですが航続距離にやや難があったため、主翼に取り付けられるコブ状の使い捨て落下タンクを開発し、そちらの弱点に関してはなんとかカバーすることができました。

実戦配備が行われると、九七式は陸軍航空隊の主力戦闘機となり、日中戦争やノモンハン事件の折には大きな戦果を挙げておりました。

しかし時が経ち、太平洋戦争が勃発する頃には、機体の性能も徐々に他機に抜かされてしまい、またもう一つの弱点であった軽すぎる武装について、九七式戦闘機には機首に7.7mmの機銃が二挺しか着いておらず、この打撃力不足が問題視され、陸軍は新たな主力戦闘機の開発に取り組んでいきました。

こうして開発が成された結果、一式戦闘機(隼)、四式戦闘機(疾風)、二式単座戦闘機(鍾馗)などの次世代機が登場し、主力戦闘機の座を明け渡した九七式戦闘機は、徐々に戦線からその姿を消していったのでございました……

こうして後輩達に引導を渡した九七式でございましたが、しかし太平洋戦争末期になると再び表舞台に駆り出されることになり、九七式には新たな使命が課されました。

その使命というのが、機体に片道分の燃料と爆弾を積み込み、搭乗員は途中離脱を許される事無く敵機に突っ込んでいく捨て身の作戦、特攻だったのでございます。

次回、九七式戦闘機による太平洋戦争末期と戦後の行方について記していこうと思います📝

最後までご覧いただきまして、ありがとうございました!🙇

撮影地

使用機材

Camera: OM-5【OM SYSTEM】

Lens: M.ZUIKO DIGITAL ED 14-150mm F4.0-5.6 II【OM SYSTEM】

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