こちらは大刀洗平和記念館本館の二階から撮影した、九七式戦闘機乙型の写真になります!📸✨
広角レンズを用いてどうにか全身を捉えることができましたが、いやぁ~……大きな翼ですね!✈️
ジュラルミン地のボディがライトに照らされて、全身鈍く光っているのが素敵です!!🥰✨✨
こうして見ているだけであるなら美しい飛行機なのでございますが、しかしその本筋は兵器でありまして、太平洋戦争末期になりますと、九七式戦闘機の多くは敵兵を殲滅するどころか、敵を殲滅するために自らも犠牲にする特攻兵器として再び焦点が当てられました……。
太平洋戦争末期の日本の状況はと言いますと、これまで中国や東南アジアから運び込んで貯蔵していたあらゆる資源が枯渇し始め、更にアメリカからの都市、要衝への爆撃によって工場も停止し、兵器や航空機の生産が滞るという災難な状態でございました。
更にこれまでの度重なる敗戦により、最新鋭の戦闘機の多くを失っており、残っていたのは既に性能を従来機に追い越されて引退した機体でありまして、そこに九七式戦闘機も含まれておりました。
また敗戦の中で多くの熟練のパイロットも失ったため、操縦の面でも、マシンパワーの面でも技術を要する作戦を行うことが不可能となり、試行錯誤を行う時間も資源的余裕も無かった中で考案された作戦こそが、片道分の燃料と爆弾を背負ってひたすら敵に突っ込むという単純な戦法……特攻でございました。
比較的操作が単純だった九七式は次々に特攻機へと転用されていき、タンクの容量を削った分で250kg爆弾を積み込み、若年操縦者と共に復路が許されない出撃が繰り返されたのでございます。
しかし九七式は本来250kg爆弾を搭載するには馬力不足な機体であったため、強引な方法で運用を行った結果、潤滑油の過熱によるエンジンの焼き付きや停止を起こす故障が頻発するようになり、出撃不能や途中帰投が続出したとされ、この大刀洗平和記念館に展示されている機体も、特攻へと向かう最中にエンジン不調に陥り、博多湾へと不時着したようです。
ちなみにこの機体に乗っていたパイロットは不時着後戦後まで生き残り、再びこの大刀洗平和記念館で自らが乗っていた九七式と対面することができたのだそうです。
そして戦後の九七式はと言いますと、日本が所有する機体はGHQの指示の下、全て解体処分がされましたが、九七式は満州やタイに輸出がされておりまして、タイではアメリカ機が配備されるまでの間は主力機として使用され、中国でも接収された機体は中華民国軍や中国人民解放軍に使用されることとなりました。
以上が太平洋戦争末期と戦後の九七式戦闘機の歴史を、私なりに総括してお届けさせていただきました!
長文となりましたが、最後まで読んでいただき、ありがとうございました!🙇
撮影地
使用機材
Camera: OM-5【OM SYSTEM】
Lens: M.ZUIKO DIGITAL ED 14-150mm F4.0-5.6 II【OM SYSTEM】
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