こちらは大刀洗平和記念館に展示されています、局地戦闘機震電J7W1の等身大航空機模型を背後から撮った写真になります!📸✨
震電は別名「異端の翼」と呼ばれている戦闘機でありまして、後部にプロペラが着いていて、前の羽が小さく、後ろの羽が大きい、通常の零戦の形とは大きく異なる、エンテ型という独特のフォルムをしていることから、そのような異名で呼ばれております✈️
海軍航空技術廠にて震電の開発が計画されたのは1942年から43年の間とされておりまして、この頃の旧日本海軍はといいますと、1942年6月のミッドウェー海戦にて主力空母4隻を失って以降、第1次ソロモン海戦や南太平洋海戦などの一時的な勝利はあったものの、第2次ソロモン海戦にて敗北し、第3次ソロモン海戦に至っては戦艦2隻を失うという大敗を喫し、とうとう南方の重要な拠点であったガナルカナル島をも手放すこととなり、戦局は連合国軍の優勢に傾いておりました。
この頃になると連合国軍も零戦に対する十分な研究や対策が練られており、それを危惧した旧日本海軍は、従来の戦闘機の限界性能を大幅に上回る革新的な戦闘機を開発しようという機運が高まり、そこで提案されたのがエンテ型の戦闘機の構想でございました。
従来の戦闘機はエンジン、武装、プロペラが全て機体の前方に設置されており、操縦席以降の後部がデッドスペースとなっていたのですが、エンテ型にすることにより武装は前方に、エンジンとプロペラは後方に配置し、機体全体をフルに有効活用することができたのです。
また、エンテ型になると前翼にも揚力が発生し、それにより主翼や機体全体をコンパクトにすることができ、空気抵抗も減って、従来の戦闘機の限界速度を突破することができるといった理論も展開されておりました。
計画が立案され、試験用の機体が幾つか開発された後、1944年2月に開発先が九州飛行機に選定され、新型戦闘機の開発は福岡で行われることとなりました。
しかしこの頃になると戦況は更に日本にとって不利な状況となっていき、マリアナ諸島を攻略した連合国軍はついに日本本土へ向けて本格的な爆撃を行い始めました。
1944年5月になると、連合国軍の大型爆撃機を迎撃することを目的に、局地戦闘機震電の試作が正式に決定し、そこから震電は実用化に向けて早急に形を成していこうとするのですが、資源不足やB-29の各主要都市や軍事拠点への爆撃によって幾度も製作が遅延されていき、1号機がようやく完成したのが製作が決定した約一年後の、1945年6月のことでございました。
1号機は蓆田飛行場、現在の福岡空港でテスト飛行が開始され、初飛行に成功したのが1945年8月のこと。
その後テスト飛行中に発動機が故障し、パーツを三菱重工に取り寄せていたのですが、その最中に8月15日を迎え、日本はポツダム宣言を受諾し太平洋戦争は終結。
震電はとうとう実用化される事無く、開発は終わりを迎えたのでございました……
以上が震電の製作に関する歴史を、私なりにかいつまんで記させていただきました!😅
ちなみに試作された1号機は戦後アメリカに接収され、現在は国立航空宇宙博物館に操縦席から前の頭部のみが展示されているそうです!👀
長文となってしまいましたが、最後までご覧いただきまして、真にありがとうございました!🙇
撮影地
使用機材
Camera: OM-5【OM SYSTEM】
Lens: LEICA DG SUMMILUX 9mm F1.7 ASPH. H-X09【Panasonic】
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