御神木の綾杉や勅使館などがあるエリアから少し離れた場所に、亀乃池と呼ばれる名前通り亀が生息していて、菖蒲が植えられている池と木々が生い茂るエリアがありまして、その場所に静かに立っているのがこちらの軍艦香椎顕影之碑になります。
軍艦香椎顕影之碑というのは、旧日本海軍に所属していた練習巡洋艦香椎の乗組員の方々を慰霊する石碑でございまして、実はこちらの慰霊碑、ちょっと特殊なのが周りの木々の緑に同化しているように見え、それもそのはず、こちらの軍艦香椎顕影之碑は緑がかった石(石の名前までは分かりませんでした)が使用されており、近くでまじまじと見てみても見事な緑色を発色していて美しく、こんな石碑を見たのは今回が初めてでございました!😄
さて、それでは練習巡洋艦香椎とは一体どのような艦船で、どのような最期を迎えたのか、少しご説明させて頂きます。
練習巡洋艦香椎(以降香椎と省略します)は、香取型練習巡洋艦の3番艦でございまして、艦名は香椎宮に由来しており、昭和16年(1941年)7月15日に竣工されました。
これまで日本海軍は老朽化した巡洋艦を練習艦として用いておりましたが、新世代の練習巡洋艦を建造する計画が持ち上がり、そこで香取型練習巡洋艦が三菱重工横浜船渠にて建造されることとなったのですが、香椎が竣工された頃には、ヨーロッパでは既に第二次世界大戦が勃発して、ドイツがソビエト連邦への侵攻を行っており、一方の日本もアメリカからの経済制裁を受け、太平洋戦争の開戦は間近にまで迫っておりました。
そのため、香椎は長距離練習航海には使用されず、開戦に向けての実戦配備が行われ、同年12月8日に真珠湾攻撃を皮切りに太平洋戦争が勃発したその時、香椎は南方作戦にて当時イギリス領であったマレー半島の上陸作戦に参加しておりました。
その後シンガポールや内地にて、主に輸送船団の護衛や海上警備の任を与えられていた香椎でありましたが、昭和19年(1944年)太平洋戦争末期になりますと、海上護衛総司令部部隊への編入が決まり、その際に対潜水艦に特化した対潜掃討艦へと改造され、大鷹型航空母艦や海防艦と共に、門司からシンガポール間の船団護衛の任を与えられることとなりました。
そして第101戦隊の旗艦にまでなった香椎でしたが、昭和20年(1945年)1月12日、アメリカが南シナ海の制空権と制海権を得るために行った空襲作戦、グラティテュード作戦による空襲と魚雷による追撃を受け、カムラン湾沖合にて香椎は撃沈してしまい、当時香椎の艦長であった松村艦長を含む計621名の乗組員が亡くなりました。
軍艦香椎顕影之碑の周りにある御影石には、当時香椎に乗艦していた乗組員一人一人の名前が刻まれており、遠いベトナムの海で散った魂は今、その船の名前の由来となった香椎の地で丁重に弔われております。
撮影地
撮影機材
Camera: OM-5【OM SYSTEM】
Lens: M.ZUIKO DIGITAL ED 14-150mm F4.0-5.6 II【OM SYSTEM】
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