実は今回、私が香椎宮を撮影地に選んだ理由はいくつかありまして、モチロン立派な社殿や御神木を撮るのも理由の一つなのですが、実はこの香椎宮には旧日本海軍の軍艦に関する物がいくつかありまして、その一つが香椎宮幣殿の横に置かれている、軍艦攝津に搭載されていた本物の砲身なのでございます!😆✨⚓
全体的に錆びついてはいますが保存状態は良く、砲身に彫られているラベルまでしっかりと残っておりまして、いやぁ〜これにはホントに感動致しました!😭
もうこの砲身が見れただけでも、わざわざ北九州から福岡まで来たかいがあったというものです!👍✨
攝津の砲身をピックアップした写真は、写真集の方にて掲載しておりますので、艦船がお好きな方は是非覗いてみてください!🙇

さて、それでは攝津とはどのような艦船だったのかについてですが、攝津は河内型戦艦の2番艦でございまして、大正元年に1番艦の河内と共に呉海軍工廠にて竣工した、最初で最後の弩級戦艦とも言われております。
攝津は大正天皇、貞明皇后双方の御召艦に選ばれておりまして、大正11年(1922年)には皇后陛下が攝津に乗船して香椎宮を御参拝しており、その際に攝津の砲身が香椎宮に献上されたと言われております。
御召艦にまで選ばれた攝津でございましたが、第一次世界大戦後に締結されたワシントン海軍軍縮条約による主力艦の保有数制限により、当時竣工されたばかりの陸奥を海軍に残すため、代わりに攝津が退役する手はずとなっておりましたが、しかし廃艦する主力艦の内、1隻のみを標的艦に変更して海軍に残すことが可能であったため、攝津は主力艦ではなく、あくまで標的艦として海軍に残ることとなったのでございます。
その後標的艦となった攝津は二度の改造を受け、昭和15年(1940年)には駆逐艦矢風と共に連合艦隊への復帰を果たしましたが、前線への出征などは一切無く、日本近海から出ることがないまま、昭和20年(1945年)7月24日に起こった呉軍港空襲による爆撃を受けて大破着底し、そのまま終戦を迎えまして、同年11月20日に正式に海軍から除籍されることとなりました。
撮影地
撮影機材
Camera: OM-5【OM SYSTEM】
Lens: M.ZUIKO DIGITAL ED 14-150mm F4.0-5.6 II【OM SYSTEM】
コメント