筥崎宮の参道は、筥崎宮から海側の箱崎浜に向かって伸びているのですが、その参道には複数の鳥居がありまして、その内最も筥崎宮寄りにある、石でできた鳥居がこちらの一之鳥居でございます⛩️
パッと見てこの鳥居、他の神社にある鳥居と比べて独特な形をしているのですが、一応種類としては多くの神社で見られる、明神鳥居の変形の一つでありまして、笠木と貫が同じ長さであり、かつ先端部分で大きな反りをみせ、外側に跳ね上がっている形の鳥居は肥前地方が発祥だと言われておりますので、このような形の鳥居を肥前鳥居といいます。
一之鳥居が建立されたのは慶長14年(1609年)でありまして、福岡藩初代藩主であります黒田長政によって建てられたとされており、一之鳥居の柱にも「豊臣黒田筑前守長政建立」と刻まれております。
しかし近年になって一之鳥居の建立には新たな仮説が浮上しており、この鳥居を建てたのは黒田長政ではなく、佐賀藩の初代藩主であります鍋島勝茂が、佐賀藩の石工を派遣して建てたという説が唱えられているのです!🤯
そうなると、黒田長政が建立したと刻まれているあの柱の文字は何なんだとなるのですが、実はこれにはあの、天下分け目の戦いが大きく関係してくるのですねぇ〜……
鍋島勝茂は天正17年(1589年)に豊臣秀吉より豊臣姓を承っており、慶長5年(1600年)に勃発した関ヶ原の戦いの前哨戦であります、伏見城の戦い、そして安濃津城の戦いではなんと西軍に着いて戦っており、西軍の主力の一人として行動しておりました。
しかし関ヶ原本戦を前に、父である直茂から東軍への寝返りの急使が遣わされると、鍋島勝茂は父の命令通り東軍への寝返りを果たし、関ヶ原へは向かわず九州へと戻りまして、当時西軍側であった立花氏の所有する柳川城と小早川氏が所有する久留米城を攻撃したのでございます。
その後関ヶ原本戦では東軍が勝利し、戦後いち早く徳川家康への謝罪を行った鍋島勝茂でございましたが、その際鍋島勝茂を徳川家康へ仲介した者が複数人居りまして、その中の一人が黒田長政でございました。
そして関ヶ原の戦いから数年後、佐賀藩の藩主となった鍋島勝茂が黒田長政への恩返しで行ったのが、筥崎宮の一之鳥居の建立だったんですねぇ〜!😆
あくまでも黒田長政への恩返しだったので、鍋島勝茂は柱に自分の名は刻まず、黒田長政の名前を刻ませたのかもしれませんね😌
しかし最初にも申しましたが、これはあくまで一説であり、筥崎宮もまだ公認はしていないようなので、この仮説が事実であるかどうかはこれからの調査結果次第となりそうです。
ですがこうして、時代が進むごとに新たな仮説が生まれるのも、また歴史の面白いところですね!👍✨
撮影地
撮影機材
Camera: OM-5【OM SYSTEM】
Lens: LEICA DG SUMMILUX 9mm F1.7 ASPH. H-X09【Panasonic】
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