ホテルで朝風呂を堪能し、朝食を頂いた後、二日目の目的地へ向かうためにやって参りましたのは、別府の玄関口であります、別府駅前でございます!🚉
別府へ行ったことがある方なら、一度は見たことがあるであろうこちらのおじさんの銅像が、通称ピカピカのおじさんこと、油屋熊八の銅像でございます🧓✨
確かにこのおじさんなら見たことがあるという方は多いでしょうけど、しかしこのおじさんが一体何をした人なのかまで知っている人はおそらく少ないでしょう。
ということで、今回は別府観光の生みの親とも呼ばれる油屋熊八についてご紹介したいと思います。
油屋熊八は1863年(文久3年)、現在の愛媛県宇和島の裕福な米問屋の長男として生まれました。
長男ということもあり、一時は米問屋の家業を継いだ油屋熊八でしたが、27歳になると宇和島町議に当選して町議員となり、更に30歳になると、今度は愛媛県を出て大阪へと渡り、相場師として米相場(米の先物取引)に挑戦するという、目まぐるしい前半生を送っておりました。
そして、この米相場で油屋熊八は成功し、巨万の富を得ることになりまして、大阪では「油屋将軍」と呼称されるほど、それはもう羽振りの良い金遣いをしていたそうです。
しかしそんな成功も長くは続かず、日清戦争後の相場の荒波で大失敗をした油屋熊八は、なんと全財産を米相場で溶かしてしまい、将軍は一転して一文無しへと転落してしまったのでございます。
その後油屋熊八は日本に妻を置いて、単身アメリカへと渡り、そこで彼は現地の教会にてキリスト教の洗礼を受けることとなりますが、しかしこれが後に、油屋熊八が別府観光の生みの親となる大きなキッカケとなるのでございます。
その後日本に帰国した油屋熊八は、再び相場師として相場に挑戦しますが、かつてのような成功は見出せず、どうしようもなくなった油屋熊八は妻の元へと身を寄せることとなり、向かったのが別府の地でございました。
別府の地へと移った油屋熊八でしたが、しかしその野心は潰えること無く、当時湯治場として有名になりつつあった別府で再起の道を図るのですが、その時油屋熊八が信条としたのが新約聖書の中にある「旅人を懇ろにせよ」(旅人をもてなすことを忘れてはいけない)という言葉でありまして、そのサービス精神の実践として開業したのが亀の井旅館であり、これが現在の亀の井ホテルの前身なのであります。
更に油屋熊八は大阪商船と掛け合い、大阪と別府を結ぶ航路を新たに開設したり、現在の九州横断道路(やまなみハイウェイ)の原型となる道路を開設したり、晩年には現在の亀の井バスの前身であります、亀の井自動車を設立し、日本初の女性バスガイドによる案内つきの定期観光バスを走らせ、別府地獄めぐりのバスツアーの運行を始めたのでございます。
そんな現在の別府観光の基盤をどんどん生み出していった油屋熊八ですが、中でも逸話なのがその広報作戦でございまして、油屋熊八は別府を更に全国的に有名にするために、「山は富士、海は瀬戸内、湯は別府」という標柱を、富士山の山頂付近や全国津々浦々に建てて回ったり、福岡や大阪や東京などの都市部の開いている土地に、建設予定もないのに「別府温泉亀の井ホテル建設予定地」の立て看板を立てて、別府の宣伝を全国的に行いました。
その後、1935年(昭和10年)に油屋熊八は脳卒中で亡くなることとなりますが、しかし油屋熊八がその信条として大切にした「旅人を懇ろにせよ」という言葉は、現在の観光都市別府の中でも息づいていると思います😌
撮影地
撮影機材
Camera: OM-5【OM SYSTEM】
Lens: M.ZUIKO DIGITAL ED 14-150mm F4.0-5.6 II【OM SYSTEM】


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