こちらは水天宮境内にあります、軍艦千歳慰霊碑を撮影させて頂きました📸✨
軍艦千歳と言いますと、旧日本海軍が所持していた軍艦でありまして、1938年(昭和13年)7月25日に当時水上機母艦として建造されました。
千歳と水天宮との関係性はと言いますと、千歳の艦内神社の分祀先には水天宮並びに高良大社が選ばれておりまして、その理由は定かにはされていないのですが、想定できる事柄が二つありまして、一つ目が水天宮が水の神を祀っていることが関係しているのではないかということと、二つ目が千歳という艦名が関係しているのではないかという、二つの点で艦内神社の分祀先が選定されたのではないかと予想できます。
一つ目についてはなるほどと腑に落ちる方がいらっしゃるかと思いますが、二つ目に関しては疑問に思う方もいらっしゃいますよね?🤔
そう、千歳の艦名というのは1899年にアメリカで建造された当時二等巡洋艦(軽巡洋艦)だった先代の千歳から引き継がれたものという説があるのですが、実はもう一説ありまして、それが筑後川が由来となっている説なのでございます。(慰霊碑の碑文にはこちらの説が記載されておりました)
しかし筑後川が由来であるならば、名前は筑後でなければおかしいと思うかもしれませんが、筑後川は実は時代によって幾度か名前を変えておりまして、その最古の名前が鎌倉時代の文献にある千歳川であり、河川の名前が1636年に筑後川と統一されてからも、地元住民の間では千歳川というのが別名で呼ばれ続けていたそうです。
このことから筑後川の旧名千歳川が艦名の由来となり、これらの要因から久留米にある水天宮並びに高良大社が千歳の艦内神社の分祀先として選ばれた理由の一つとなったのではないかと予想することができるのです。
まあ、あくまでこれらは仮説であって、定かにはされていないのですが、しかし千歳の艦内神社の分祀先が水天宮並びに高良大社であったことは事実でありまして、当時の久留米市民はこのことを誇りに思っていたようです。
そのことを示すものとして、当時の久留米市長が会長となり、久留米を中心とした筑後地方一帯の住人約1900名の有志によって軍艦千歳会という団体が発足されており、千歳会は蓄音機やレコードをはじめ、絵葉書や軍艦旗など多数の物品を千歳に献納したそうです。
しかし千歳が建造されてから僅か6年後の1944年10月25日、レイテ沖海戦内、エンガノ岬沖海戦で千歳は敵機の急降下爆撃と至近弾を受け撃沈。
軽巡洋艦五十鈴の救助もあり、乗員300名ほどが救助されましたが、艦長以下903名の乗員が死亡するという悲惨な最期を迎えたのでございます。
その後亡くなった千歳の乗員を鎮魂すべく、写真にあります慰霊碑が建てられたのですが、こちらの慰霊碑も千歳の生存者並びに遺族だけでなく、久留米市や筑後川流域の各地のほか、多くの人々の協力を得ることができて建てられたそうです。
慰霊碑の前にある案内板には「一般の方々の祝福を受けた幸せの艦であったと思います」とありますが、まさにこの立派な慰霊碑や歴史がそれを物語っておりまして、私自身も千歳のことをもっと好きになることができました!🥰
撮影地
使用機材
Camera: OM-5【OM SYSTEM】
Lens: LEICA DG SUMMILUX 9mm F1.7 ASPH. H-X09【Panasonic】
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