こちらは水天宮総本宮境内にあります、真木和泉守の銅像を撮影させて頂きました!📸✨
真木和泉守こと真木保臣は江戸時代後期の水天宮総本宮の宮司であり、久留米藩の藩士でもありました。
1823年に水天宮の神職を継ぎ、1832年には和泉守の役職を任じられまして、教養として国学や和歌などの様々な文学を取り入れていきましたが、その中でも特に没頭したのが水戸学でございました。
水戸学というのは、現在の茨城県北部にあった常陸国水戸藩で形成されまして、儒学思想を中心に国学、史学、神道を折り込んだ文学のことです。
水戸黄門で有名な徳川光圀が大日本史を編纂したことによって形成された前期水戸学と、江戸幕府最後の将軍である徳川慶喜の父、第9代水戸藩主徳川斉昭のもとで攘夷思想に発展した後期水戸学とに主に分かれておりますが、真木保臣が傾倒したのは攘夷思想が含まれた後期水戸学の方でありました。
その水戸学へののめり込み具合はといいますと、わざわざ久留米藩から水戸藩へと向かい、水戸学藤田派の学者である会沢正志斎の門下生となり、後に水戸学の継承者と位置づけられるほどに強く影響を受けたとされています。
更に1847年、孝明天皇即位の大礼を目にした真木保臣はますます尊王の志を強くし、その後久留米藩に戻った際には水戸学の教えを新たな学派「天保学連」として擁立しましたが、しかしこの学派の擁立こそが長きに渡って久留米藩を分裂させることとなりました。
まず天保学連そのものを批判する門閥派が台頭し、更にこの天保学連も一枚岩では無かったため、天保学連内でも尊王攘夷派と公武合体派に分裂してしまい、互いの派閥同志で争い始めたのです。
真木保臣ら尊王攘夷派は他の派閥より影響力を持とうと、藩政の改革を藩主であった有馬頼咸に進言しますが聞き入られず、更に門閥派の弾劾にも乗り出しますがそれにも失敗してしまいました。
これらの責任として、尊王攘夷派の指導者であった真木保臣は下妻郡水田村(現在の筑後市の一部)へ蟄居を命じられ、なんと10年もの間幽閉されることとなったのでございました……。
ということで、今回はここまでとさせていただき、次回、真木保臣の後半生と最期について記していきたいと思います✒️
最後まで拝読していただき、ありがとうございました!😌
撮影地
使用機材
Camera: OM-5【OM SYSTEM】
Lens: M.ZUIKO DIGITAL ED 14-150mm F4.0-5.6 II【OM SYSTEM】
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